みかんのたね

薬学や研究の話、くだらない話、愚痴などを書きます。

労働配分についての一考察(1)

等しい労働に対して、等価な報酬が得られるべきであるという考え方がある。

いわゆるところの「同一労働同一賃金」という標語である。私はこの「同一労働」という言葉に対して、あれこれと考える前から腑に落ちないものを感じるので、これに関する愚考の一片を記しておくことにする。

例えば何か労働をしている人を集めてきたとして、それぞれの行っている労働が「同一である」かどうかに関することを、誰が、どのようにして判断するのだろうか。

私には、そこのところが大変疑問である。なるほど確かに、生産の過程におけるある種のラインの中で、均一に整えられたXというものに、同じく均一に整えられたYというものを決まったやり方Pで付け加えて、均質に整えられたXYというものを産み出すという理想的なプロセスを仮定すれば、それはAという人が担当しても、Bという人が担当しても「同じ」仕事であるということが言えるかも知れない。ここでいうXとかYとかは、物質的なモノであってもよいし、サービスや情報の様な無形のものであってもよい。だけれども実際の現場においては多くの場合において、Xは均一ではないし、求められるものがXYであるとも限らない。また方法Pもはじめから定められているとも限らない。不確定な要素が尽きない中で、さらに担当者A,B,C…は均質ではない、ということはこの問題を考える上で大変重要である。

人間は工業製品ではないので、個性、得手不得手、能力・知識、といった要素が個人ごとにそれぞれ異なる。

工業製品であれば、求められるパラメータ(大きさ、重量、生産性、など)がある平均値のまわりに分布する様に設計・生産される。したがって、工場でロボットたちがある製品を組み立てていくという状況を考える場合には、各ロボットの「平均的な」能力を想定して、全体の労働配分を考えていけばよい。この時に、ある工程を担当するロボット1とロボット2が、同じ仕事をしているかどうかの判断はたやすいように思われる。しかしながら、広く世の中に存在する仕事について、多様性を持ち合わせる人間が担当しあって進めていく場合には大変複雑な様相を呈することは想像に難くないように見受けられる。このことは労働を管理・配分する側の認識の問題だが、人間というものに対するこの認識ひとつが、人間性をまるで無視した社会へとつながる道の入り口になっている様な気がして、私には恐ろしく思えることがある。

労働の格差については、古くからhigh skilled labor(熟練労働者)とunskilled labor(非熟練労働者)が存在するという観点から考察がなされてきた。

ある労働に対する熟練度の差が、仕事の差を産み出し、結果として賃金の差をもたらすという考え方である。ここでは、労働による生産性が何者によって正しく評価されているということ、さらにその評価がる方式によって賃金と対応づけられているというが仮定されている。しかし私にはその前提が、途方もなく非現実的な仮定の様に感じられる。

ある集団の中で、ある単純な内容の仕事がどのように配分されているか、ということについて正しく答えを出すのは簡単なことではない。

身近なことがらで、このことに関する考察を得られる様な題材が無いかと探索したところちょうどいい題材が見つかった。私が籍を置く研究室では、実験室から出たゴミがゴミ箱に溜められる。このゴミ箱は複数あるが、それぞれのゴミ箱が一杯になると、それを廃棄可能な状態に処理して廃棄するということを行っている。この処理は一日に数回行われ、皆で「平等に」やりましょうということになっている。この作業を行った日時・担当者については記録ノートがつくられており、その記録は正しく行われている。そこでこの記録をもとにして、実験室のゴミを捨てる、という単純な仕事についての配分について調べてみることにした。

(続く)